日記

日々を愛しています

寝ても寝ても

人生は選択の連続だ、みたいなやつを不意に思い出して

何となく自分の今までの人生における選択って、小さければ小さいほど、消極的な理由で選んでる気がするなーなんて思う

まあひとつの理由だけでひとつの選択を選ぶことは少ないけど、どっちかというと消極的なものが多い気がする。

めんどくさいからやらない。

好きじゃないから行かない。

あれよりはマシだからそうする。

そんなんばっかりじゃきっとあと十何年もすればやることが無くなってしまう。どうせ無駄に長く生きるなら楽しくいきたい。

行動の重きを、おもしろいから、とか、好きだから、とか、楽しいから、とかにシフトしていきたい。

そうそう最近はなんとなく、寿命で死ぬまで生きてもいいかと思っている。前まではただ漠然と、40になったら死んでもいいか、なんて思ってたけど。高校の大会の時の、いるかいないか分からないような顧問に「いつもみたいにふてぶてしくな」と言われたのを思い出す。何となく"私のふてぶてしさ"がわかったような気がする。

誰かに自分について断言してもらうのは、どう受け取るかにはよるけど、自分で自分を形作るのに結構重要な手続きのような気がする。

 

私はずっと語尾に「〜な気がする。」と断言せずに日記を書いていることにここで気づく。自分でも自分について断言していきたいね。

 

こう、色々考えたり、珍しくエッセイを読んだりして、逃げないで生きていきたいなと思う。私の消極性がいい結果を産んだことなんて20数年間で1度もなかった。

ここ最近はずっと家で卒論と向き合っていて、あんまり機会が無いけど、久々に学校に行った帰りに、見たい配信を我慢して研究室の同期と一緒に帰ることを選んだし、

当時仕事の話しかしなかった先輩方と通話しながらゲームをしたり、

ちょっと前の自分だったらトイレに行って時間ずらして一人で帰ったり、予定をうやむやにして逃げたりしてたんだけど、

やってみたらかえってみたら結構楽しかったりして、今までのはなんだったんだろうなーと。

ただこれが自粛で人に会えないことへの短期間の反動では無いことを祈る。

 

媚びを売らなきゃいけないんじゃなくて、媚びを売ることで自分が過ごしやすくするための権利を勝ち取る。っていう考え方なら納得できる。私も社会人大学に入ったら上手くやっていきたい。

最近よく売る本の売り文句みたいなので、「完璧主義者と言われたくないけど、繊細さんという表現がしっくり来た」なんて言う感じのことが書いてあったけど、ただ繊細さんと言われて特別に気を使われたいだけなんじゃないかと思う。そんな、誰かに新しく都合のいいカテゴライズをされたから急に生きやすくなるやつは繊細では無い。

私は完璧主義って言われていい。気を使われて下に見られるよりも自分で選んでこう生きている、あくまで主体的でいたい。

いやいや、私もほとほと生きづらい性格をしている。ただ、簡単に救われてる「繊細さん()」に憧れているだけなのかもしれない。

 

COLORSのMVが涙無しに見れないのは、サビでうつる黒板が、私が、行くつもりもないフェスのアーティスト一覧で見つけた時のハンブレのアー写に似てたからです。あのアー写で私はハンブレに出会ったからです。吉野さんは、まるで元からそこにはいなかったみたい。

私の感情なんてクソどうでもいいんだ。もう絶対。ハンブレは絶対に売れて欲しい。紅白もでてよね、ムツムロさん。

不変はない。

 

太陽が出ているうちは何も出来ない私は社会不適合者でしょうかね。

卒論を書かなきゃ。日記なんて無駄。

でも何よりもずっと無駄を愛してきたなあ。

服、化粧品、勉強よりも、CD、ライブ、サイゼリヤですごしたあの時間

無駄っていつもキラキラしてて、おもちゃ箱みたいで、それを取り上げられても生きていけないわけじゃないけど、ただ拗ねるくらいはしてしまう。ネット上で繋がることで、多くの人が無駄を無くせるなんて喜んでるけど、そろそろ私くらいには無駄を返してほしい。

嬉しいけど辛いことって、きっと存在する。