この間お見舞いに行ったばかりの親戚のおじさんが亡くなった。
最後に会ったとき、力なくも変顔をしてお別れをしたので信じられなかった。
物心の付いた私の、初めての体験だった。
彼がキリスト信者だったことを知らなかった。
同じ大学に通っていたことを知らなかった。
研究会に行くほどの文学好きだということを知らなかった。
賛美歌も、聖書の引用も、宗教とか信仰とは無縁の私には何もかもが新鮮だった。
宗教に入りたいかの話じゃなくて。人生の終着点として、答えになるような、いやそこまではいかなくても、一緒に考えてくれる、すがれて救ってくれる対象があるのはいいなと思った。
「キリスト教を信仰したことによって、心に刺さっていたとげが抜けた、というか溶解したという表現がふさわしい」みたいな感じのおじさんの残した言葉
とげは抜けたけど自分の体の外、どこかには存在している。じゃなくて、完全になくなったという解釈であっているのかな。違うのかな。何も苦しいことがなくいけたならいいな。
酔っぱらって顔を真っ赤にして、大声でしゃべっている、宴会のような大勢の集まるような場所の、にぎやかな場所の似合う人だった。式中も、火葬場でもみんな笑顔だった。彼だからなせる業だ。
比喩とかではなく本当に眠っているような姿だったから、ただの軽い骨になって出てきた彼に少しだけ怖さを感じた。現実味がなかった。
話が大きくなりすぎて書けない。
人の人生についてなんて、命についてなんて書けるわけがない。
私はただ、たくさんの人が私のお葬式に来たいと思ってもらえるような、私を思い出して少しでも心を動かすことができる、そんな人間になれるように生きていきたいと思うだけ。