日記

日々を愛しています

ボーカロイドとわたし

小学生の高学年になったころ、1クラスしかない閉塞的な空間の中で、ほとんどの女子は嵐が好きだった。

今思うとかなり酷い、嵐を好きじゃないと生きづらい空間だったように思う。そして当たり前のように私も嵐が好きだった。

でも誰から広まったのか、クラスの仲良い子が一人また一人ボーカロイドを聞くようになって、中学に上がった頃にはみんなが存在だけは知っている、くらいのそんな感じだった。

そこからしばらくボーカロイド自体が悪みたいな扱いをうけていて、給食の時間の曲リクエストでは、ボーカロイドだけは禁止だった。

嵐という、女子が好きなアーティストNO.1をすきだった私は、最初、あの機械の声はなんだか得体の知れない恐ろしいもののように感じて、認知することすら避けていたような気がする

でもボーカロイドが周知され始めて、聞くことは悪いことのように扱われ始めた頃、少し興味が湧いてきた。ただそれは中学生が隠れてタバコを吸うみたいな、そんなただの悪いものがかっこいいみたいなそんな時期だからというのもあったのかもしれない。

でも実際にそこからしばらく、私はボーカロイドが歌う、いわゆる原曲、は聞かず歌ってみたばっかり聞いてた。のだけど、その話を書いてたら脱線しまくって戻れなくなったので全部消してしまった。

なんやかんやあって今、ボーカロイドまたはそれに近いネット発信の音楽が流行ってる時代に、なぜ当時の私がボーカロイドにそこまでハマったのかと考えると、ある種の生々しさと物語性なんじゃないかなと思う。

実際に存在する、歌手、有名人が歌うということは、曲がその人の肩書きとか、人間性によって簡単に良くも悪くも変化すると思う。

それに、ただ単純にボカロ曲にはセンシティブな歌詞が多かったし、ただ単語を羅列しただけの曲もあった。今聴いてる音楽に比べて、歌詞に共感することもほとんどと言っていいくらいなかった。今でこそあるけど、嵐ばっかり聞いてた私には、人間の内側を抉るような生々しい曲があの機械の声で歌われるギャップが衝撃だった。死だとか、骨の髄だとか、下ネタだとか。もちろんポップな曲も沢山あったけど。そんな曲たちが、実在する人間が歌われてもかなり受け入れ辛い。

生々しい歌詞と、歌っているヒトの匿名性というか、そういうのがマッチしまくっていたというのがある。

あとは物語性、シリーズもの。何部作だとか、そういうのもJPOPには無い文化だと思う。カゲロウプロジェクト、nightシリーズ、悪ノシリーズ、HoneyWorks。小説を読むように、アニメを見るように、多くの人が熱中、魅了、感化されていたと思う。思うというか実際そうだ。

 

以上が、ボカロを経てバンドばかり聞くようになった私が、クリープハイプ×n-bunaのまさかのコラボに胸躍らせて思ったことでした。うーんボーカロイドに対してはもっと沢山思うこともあるんだけど。

 

n-bunaさんがどう生きようが、n-bunaさんの調教したボーカロイドの歌声と曲の組み合わせは世界一美しくて綺麗だったし、何年たってもボカロ新曲を待ってしまう。あとOrangestarくんも。

ありがとうございました。